強烈なインパクトを持つタイトル『女が死ぬ』。松田青子さんの描く「女に対する定義の理不尽さ」にいちいち「わかる~」と声が出ます。凝縮された53本の短編たちから繰り出される、抑圧をはねのけるパワー。共感するだけでなく、そこから自分は何ができるかを考えたくなる。それでいて読み物としても面白いのです。
『女が死ぬ』松田青子 中公文庫 中央公論新社
表題作「女が死ぬ」
シリアスな展開のドラマや映画にありがちなのが、”妻と幼い子を(テロで)(事故で)(事件で)失った”主人公が、絶望と慟哭の中から再起したり、復讐を試みたりする展開。
そんな全視聴者号泣のスペクタクルストーリーを仕立てるためにすること。それが、
「女が死ぬ」
この短編の前半は小説というより、事実を淡々と冷静に述べているといった趣がある。登場人物の女が妊娠したり出産したり流産したり男に襲われたり、死んだり。
そこから話が動き出すことの違和感を読者に提示する。なぜに女は画面の向こうでも苦痛を味わっているのか。観客側の女たちも黙って鑑賞し、思い返して苦痛(二次被害)を受けているではないか。
読者たちが過去の作品の理不尽さに改めて気がついてきた頃。著者は間髪入れずザラザラした手触りの話をぶち込んでくる。
前半の「女が犠牲になることで動き出すストーリー」を踏襲したかのように、路上に倒れ込む女性。助けようとする若者たちと倒れた女性との間のやり取り。突拍子もないセリフをいう被害者の女性。
松田氏が女を倒れさせたら、こんな着地を、いや着地しないままエンディングを迎えてやるぜ。そんな意識を感じる。
そして垂れ流されるご都合プロットのために、これまでフィクション上の女たちがどれだけ苦しめられたか。それは現実社会の構造の写し鏡であるということ。そこまで想起させる作品なのだ。
「ヴィクトリアの秘密」
高校生のヴィクトリアはその華やかな名前が嫌い。ピンクやレースも好きじゃないけれど、男の子の好きだとされる角張ったおもちゃが好きなわけではない、そんな子ども時代だった。
親友テリッサに”女の子”であることの違和感をそれとなく話す。だからと言って厳密に女性だけが好きなわけでもない。そんなどこにも属さない自分の立場をどう表現したらいいんだろう。社会でどう立ち振る舞えばいいんだろう。
それをカミングアウトというなら、なぜそれは”秘密を保持”していることになるのだろう。誰でも何らかの秘密はあるんじゃないのか。なぜ男女性のことだけは意を決して打ち明けなければならないのか。
そんなヴィクトリアの思いを感じとったのか、親友テリッサの最後のセリフがとてもよかった。この二人は一生友だちであり続けるのだなと。
「男性ならではの感性」
この作品の中では男女の立場を180度回転させたパラレルワールドが描かれる。
”男性らしい視点”から開発された商品が大ヒットし、「これからは男性活躍の時代だ」と持ち上げられ、男性たちも意気込む。この世界での男性は結婚と仕事の両立はまだまだ難しいのだ。セクハラは茶飯事で、子どものころからあいつのアレはCだAだ、でかいちいさい、などと揶揄されて育ってきた世界。
あれ、ここの男性たちつらそう。生きづらそう。幼少時から社会人になっても容姿とスタイルで判別されて、男だからって実力がないと決めつけられている。頭角を現したらきっと「美男すぎる議員」みたいなキャッチフレーズつけられるんだろうな。
女性たちに抑圧された男性たちの働きぶりが滑稽ですらあり、やがて悲しくなる。
読者は自分が受けた理不尽な言動を思い出す。松田さんが構築する世界線の中で、ソフトなハードな差別を主人公の男性にぶつけてしまうかもしれない。
私たちの生きる世界は「女性ならではの細やかな感性」が褒めそやされるのだ。それが男女参画を推進する上で大切なことだ、とされている。
その歪んだ”男女平等”が尊重されることが、現実社会の私たちの置かれた場所なのだと認識せざるを得ない。
自分たちの状況を俯瞰して気がつくこと
この一冊の中には、まるで英文を角ばった日文に翻訳したような文体もあれば、見開き活字ゼロでタイトルの皮肉を感じとるべし! といった作品もある。それぞれ異なる角度からアプローチする掌編たちだが一貫するものがある。
あなたの住む世界は違和感だらけなんだよ。当たり前に享受されている社会やコンテンツや文化を疑ってかかることが第一歩だ。搾取する側にとって都合の良いものを作り上げているということを知るべきなのだ、と。
松田さんの脳にはどんな宇宙が広がっているんだろうと考える。直接的に差別したものを糾弾することは簡単であり危険だ。そして1つの事象だけが悪さをしているのではない。無意識下に女性たちにも埋め込まれた構造を自ら理解すること。その大切さを知ることのできる本なのだ。