『ニューヨーク製菓店』キム・ヨンス (金衍洙) 心がじわりと溶かされる。

ニューヨーク製菓店 キム・ヨンス

書店に韓国の作家さんの物語やエッセイがあふれています。ここ数年ほんとうに増えましたね。どれから読むべきか迷っている方にお勧めのショートストーリーがこの『ニューヨーク製菓店』です。著者のキム・ヨンスさんは1970年生まれの韓国人です。繊細に広がる情景や心情は、日本に住むわたしたちの胸も揺さぶる、そんな作品です。

目次

『ニューヨーク製菓店』キム・ヨンス (金衍洙)

訳者:崔真碩
出版社:クオン
(韓国文学ショートショート きむ ふなセレクション 15)

クオンさんによる『ニューヨーク製菓店』の特設ページはこちら

舞台は1970〜90年代初頭までの金泉市(慶尚北道の南西部)、金泉駅前の広場にあった「ニューヨーク製菓店」の末っ子として生まれた男性の独白だ。これはキム・ヨンスさんの自伝的小説だと言われている。

1993年詩人としてデビューし、1994年長編小説『仮面を指して歩く』で第三回作家世界文学賞を受賞したというヨンスさん。その後は小説やエッセイを書き、数々の受賞歴も持った韓国を代表する作家のひとりだ。

 

庶民的な駅前のパン屋さん

 

「ニューヨーク製菓店は私が生まれる前からそこにあったから、死んだ後にもそこにあるものと気ままに考えていたようだ。もちろん、人生はそういうものではない。」

主にパンを製造販売していたこの店、主人公の「私」は子どものころパンだけは存分に食べた、と言う。それも豪華なパンではなく、あんぱんのような日常的なパンに親しみを感じていた子どもだった。

店頭用に大量に焼かれたカステラの端っこ(キレッパシ)を兄弟で争うように食べていたが、すぐに飼い犬にまで見向きもされない「カステラの屑」と化した。

「どうぜ人生とはそういうものだ。度を過ぎれば飽き飽きする。」

 

少年時代と店の灯り

 

70年代の店や町の灯り、白熱灯やクリスマスの灯り、自動車のテールランプ、たばこの火。思い出すたびに「きらきらと胸の片隅で灯りが放たれるようにきらめく。」

「私」が少年時代に目にした光や駅前の光景すべてが、おとなになった自分の心を温める要素となっている。そしてその風景は既にないという現実がある。主人公は静かなあきらめを抱えているようなのだ。

 

政治的な転換点と製菓店のゆくえ

 

日本の小説にももちろん時代は反映されているだろう。その頃の流行りや時代背景に登場人物が影響されていることは当然だ。

『ニューヨーク製菓店』のような短編を日本の町のどこかを舞台に書いたとして、そこに「田中角栄が逮捕され云々」のような政治的な一片をはさみこむ作家は少ないのではないか。

韓国は市民の生活と政治的な状況が密接につながっているのがこの短編を読むとわかる。政情不安を少年は肌で感じながら、店の転機とも向き合うことになる。

ソウルからの流行が金泉の町にもやってくる。新しい感覚の店舗や商品に心が移っていく客たちに、店も腐心する。その時代に沿ったパンを提供しようと努力していた。決して時代遅れではなかったのだ。

だが店の行方は努力に報いてくれない。大きな変化がやってきて、「私」は思う。

「公正に真ん中を走るとすれば、予感は良いことと悪いことのうち、悪いことのほうによく倒れるものだ。」

 

大人になった「私」

 

地方都市である金泉は徐々に変化し、町の風景は少年時代の面影を留めていない。その情景を直視できないままの「私」は過去のともし火を思い浮かべる。

そして悟るのだ。今は存在しない「ニューヨーク製菓店」は確かに「あった」のだ。その存在が精神的にも金銭的にも支えてくれた。それは揺るぎない事実なのだと。

もうひとつ「私」は大切なことを悟る。

「ただ見えるものだけが全部ではないという事実を、この世から消えたと信じていたものが実は私のなかにそっくりそのまま存在するという事実を」

 

読んでいると 自分の中のともし火が見えるはず

 

ノスタルジック。それで片付けてしまうにはなぜだか素通りできない深みがこの短編にはある。災害や戦争によって突如として失われたわけではない「私」の町は、ただ世の中の流れに沿って消えていったのである。

永遠に続くと思われた営みは、振り返れば一瞬のともし火であったように著者は感じているのだろう。握りしめればほろほろと崩れそうな淡い思い出をそっと抱いて「私」は生き続けようと思ったのだ。

その感情は海峡を越えて日本のわたしたちにも静かに染み入ってくる。確かにあったものが今はない。その寂しさを心のうちに持っていない人はいないだろう。読んでいてなぜだか心がじわりと溶かされる、そんな読み心地のおはなしなのだ。

 

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初出は2000年代前半

 

この『ニューヨーク製菓店』という短編は2000年代初頭には書かれていたようだ。国際交流基金(ジャパンファウンデーション)という団体が2005年、「日韓友情年2005」を記念した講演会にヨンス氏を招いたという。その講演会にて配られたのがこの『ニューヨーク製菓店』を含む3作であり、その時の訳者は崔真碩さんだとのことだ。

この時の東京での講演内容が国際交流基金のPDFに残されている。ご興味のある方は下のリンクからどうぞ。

国際交流基金 開高健記念アジア作家講演会シリーズ(14)韓国 キム・ヨンス 講演会内容

 

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