第11回アガサ・クリスティー賞大賞を受賞し、第166回直木賞候補、2022年本屋大賞候補作にもなっているこの作品。これがデビュー作だとは信じられないほどの重みを抱えた作品です。舞台は第二次世界大戦のさなかにあるソビエト。最前線で戦うソビエトの女性狙撃兵たちの物語です。ここに勝者がいないことは明らかなのですが、人はなぜ人を殺めるのか、そして殺戮と同時になぜ女性への蹂躙があるのか、幾つかの命題が存在するお話です。
『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬 早川書房
[2022.4.7 追記] 2022年本屋大賞受賞おめでとうございます。とはいえ「この本は最悪な形で同時代性を背負ってしまった。」と逢坂氏。戦争のむごさを伝えた小説が現実とシンクロしてしまう絶望をコメントから感じます。
日本人作家による独ソ戦という視点
研究者ではない日本人が第二次世界大戦の物語を読むとすると、極東から見たアメリカや中国、ソビエトという視点が多いのではないだろうか。ことさら外に目を向けなくても、空襲、原子爆弾、沖縄、特攻、満州引き上げ、シベリア抑留…卑劣や残忍、凄惨を極めたのだから、多くの苦しみや悲しみは日本固有のもののように錯覚してしまう。
ただここ数年、独ソ戦に関する本がベストセラーになっている。岩波新書の『独ソ戦』、岩波現代文庫『戦争は女の顔をしていない』。
『独ソ戦』は第二次世界大戦の中盤、矛先をソビエトに向けたドイツ軍と史上最大ともいわれる犠牲を払ってドイツに勝利したソビエトとの壮絶な戦いの記録だ。
『戦争は女の顔をしていない』は戦時中に兵士や従軍看護師またパルチザンとして戦った多くの女性たちの証言を、戦後スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが一つひとつ聞き取りまとめたものである。発行当初、独ソ戦の勝利は華々しいものとして国民の脳裏に刻まれるべきで、女性兵士たちの生身の言葉は忌み嫌われたらしい。戦後40年を経過していようが言論統制は続いていたのだ。
『同志少女』の巻末の参考文献のページにももちろん上記の書籍が挙げられている。著者はなぜひねりのきいた題材を扱おうと思ったのだろう。
『戦争は女の顔をしていない』を読んで、彼女たちの証言が立ち上がってくるような感覚に至ったのだろうか。
銃や戦車や爆撃機の写真、居並ぶ兵士のモノクロ写真を見ただけでは残念ながらそれに続く戦争の現状を想像できない。知らないことはわからない。私は考えることすらしていなかった。
日本も日本兵も出てこない第二次世界大戦の物語、ヨーロッパの東部での激戦を少女兵の視点で読む。読者も塹壕に入り、市街戦を戦い、血みどろ泥まみれになって、読者は考える。
なぜ戦争は始まるのか。人はどこで残忍な殺人鬼となり果てるのか。その無益な戦いはいつまで続くのか。その勝利は本当に勝利なのか。
そしてニュースで見聞きするウクライナへの侵攻は今に始まったものではないと知ることにもつながる。
この読書体験は読者に新たな視点が加わることを意味するのだ。
少女兵セラフィマの誕生
兵士の人生は突然戦いから始まるわけではない。それをまざまざと見せつけるような冒頭部分である。物語は牧歌的な村の営みの風景から始まる。セラフィマは大学進学を目指す思春期の娘だ。描かれることが平穏であればあるほど、読者はその後に訪れるであろう惨劇を想像して背筋を寒くする。
ソビエトに侵攻したドイツ兵の一部が主人公セラフィマの住む村を突如襲う。家屋を破壊し略奪しそして女性を蹂躙する。そのおぞましいできごとを猟師でもあるセラフィマとその母は目撃し、母もその後銃殺される。村内で命があったのはセラフィマだけだった。
ほどなくして味方であるソビエト赤軍が到着しドイツ兵は一掃された。
だが味方であるはずの赤軍、その隊を率いる女性兵士イリーナは冷酷非道だった。自宅の思い出も母の遺体も損壊させるという暴挙に、セラフィマの心は更に傷を負う。
女性兵士イリーナは撤退の刹那、セラフィマに尋ねる。
「戦いたいか、死にたいか。」
一度は「死にたい」と答えたセラフィマ。だがその女性兵士の指示により、即刻亡くなった母と自宅もろとも油を撒かれ火を放たれる。セラフィマの住む村は焼き払われた。
女性兵士にそしてドイツ軍への燃えたぎる憎悪が噴出し「殺す!」と叫ぶ。
その激しい感情を引き出すことがイリーナの狙いであった、とセラフィマも読者も後から気がつくのだ。
中央女性狙撃兵訓練学校
イリーナが指揮を執るこの訓練学校に放り込まれたセラフィマ。そこで同様に家族や家を失った女性たちと出会う。どこにも行き場のないその女性たちと共に学ぶこととなる。基礎体力や弾道学、政治思想、実践訓練を経て、結束も固めてとうとう本当の戦場へとおもむくこととなるのだ。
ここでの出会いがその後 戦い抜く主要メンバーとなる。人物像が美少女もののようなキャラ設定なのだが、そのほうが読者も想像しやすいのかも、と考え直す。
お人形のように美しい少女シャルロッタ、カザフスタンの黒髪のアヤ、コサックのオリガ、男装の麗人をほうふつとさせるイリーナまで、舞台化できそうなわかりやすさだ。
この学校内という安全な場所でも裏切りは発生する。穏やかな友人だと思っていた人物の本当の姿を目にしたとき、時は戦中であり一分の油断もないのだとわかるのだ。
初陣、スターリングラード近郊
訓練学校生は第三九独立小隊という女性狙撃兵部隊となった。スターリングラードを攻略するドイツ軍に歯止めをかけたいソビエト赤軍。ドイツ軍の守護につくルーマニア軍との戦いが、彼女たちの初陣だった。
狙撃の腕は確かでも、人を撃ったことがあるはずもない彼女たちは動揺する。しかし油断と迷いと慢心が命を奪うことを体感し、号泣しながら進む。敵味方問わずたくさんの血と死を見せつけられて、兵士としての覚悟と自信を持つことになるのだ。
セラフィマはそのあと一人の女性看護兵と出会う。そして尋ねられる。
「生理、ちゃんときてるか」
セラフィマも読者も一瞬止まる。殺戮殺戮の記述の後にそぐわないような質問。女性を守るために戦うと上司に明言したセラフィマは、まず自分の身体を守らなければならないのだ。自分を顧みなくてなにが女性を守る、だ。
「女がロシアの所有物だ」と祖国の男どもに思われているのにも不快感を示すところで、セラフィマの初陣の一日が終わる。
女性兵と女性の尊厳についての小説なのか
このあと第三九独立小隊は、スターリングラードの市街戦で、物陰からドイツ兵を狙う。この街の住人であった兵士たちとの同居しながらの戦いだ。自分たちの町をドイツ軍に散々に破壊された人々の悔しさを読み取る。同時に外国の知らない町を占領したドイツ人たちの孤立無援な立場も描かれる。
この章で、読者はソビエト人にもドイツ人にも殺戮する兵士ではなかった日々があったのだと、改めて気がつく。章の最初には実在の兵士たちが祖国の家族にあてた手紙が掲げられている。だれにでも家族や自宅がある人間なんだと理解した上で読む狙撃爆撃の数々は更につらいのだ。
ここには一般市民の女性たちも多く登場する。純粋なパルチザン、ドイツ兵と一線を超える女性。みな生き延びるために、そして自分の尊厳の保持のために戦っているのだ。そうせざるを得なかった女性たちを見るにつけ、セラフィマは本当の意味で女性を救うのがこの戦いなのかと考えるようになる。
この戦いに勝利したらこの国の女性は救われるのか。戦争が終わっても、男たちの女性に対する言動が変わるとは思えない、ではなんで私はこんな過酷な戦闘を続けているのか。
ここから戦争終結に向けて、さらに厳しい戦いに挑む第三九独立小隊。独ソ戦の勝利はソビエトであることは史実だが、セラフィマたちの生死や心のありようはどうか読んで確認してもらいたい。
中央女性狙撃兵訓練学校にて教官イリーナが言うセリフがある。
「敵を撃つとき、お前たちは何も思うな。何も考えるな。…考えるな、と考えてはいけない。」
この言葉、角田光代さんの『タラント』の中の’ぼく’が、戦地でそして戦後にずっと自分を戒め続けてきた気持ちと同じで、ちょっと鳥肌が立った。
[2022.3月追記] 21世紀のこの世界に地獄が巡りくる恐怖
ロシアがウクライナに侵攻している。『同志少女』を読んだ人は自分たちの町を防衛する人々の映像を見て、セラフィマたちを思い出すのではないか。
21世紀の現在も地獄は巡るのか。この世がどうなるのか誰にも見通せないことがもどかしい。一刻一刻事態は変化している。
狂気の凶器ほど恐ろしいものはない。冷静な駆け引きがもはや通用しない事態にどう立ち向かえばいいのか。