『愛についてのデッサン』の初出は1979年(昭和54年)。角川書店より刊行された小説です。
主人公20代の佐古啓介は亡き父が営んでいた東京・阿佐ヶ谷にある古書店を継ぎ、妹 友子と共に暮らしています。啓介はお人よしの面があるようで、人に難題を依頼されては全国を巡ってキーパーソンに会い、解決の糸口を得ようとするのです、が、出会う人物だいたい美女。ここがカナメ。今回は昭和の時代の男性の語りについて語る、そんな内容です。
『愛についてのデッサン 野呂邦暢作品集』野呂邦暢(のろくにのぶ) ちくま文庫
著者 野呂邦暢氏について
野呂邦暢氏は長崎市の生まれ、諫早に疎開していたことで原子爆弾の被害に合わなかったという。
戦後も諫早に住み、『草のつるぎ』で1974年(昭和49年)第70回芥川賞を受賞している。受賞後専業作家として活躍。
しかし1980年(昭和55年)に42歳で他界してしまう。
この作家の幸運なところは作品が何度も再刊行されていることであろう。昭和から遠ざかるにつれてノスタルジックな面持ちの文章を欲するのだろうか。
2021年6月に発刊されたちくま文庫からの作品集は文庫版であることで更に手に取りやすい。編者が岡崎武志氏であることも信頼できるところ。古本といえば岡崎氏だと認識している。
『愛についてのデッサン -佐古啓介の旅-』
美女には弱い
東京・阿佐ヶ谷にて父の跡を継いで古書店を営む佐古啓介。彼の大学時代の悪友がたびたび依頼を持ちかける。人がいいのか頼まれごとを受けやすい。
一つ目の依頼では美しい人妻を連れてきた。前年亡くなった若い詩人の肉筆稿を手に入れてほしい。長崎の人物で版元もその地にある、とのことで啓介は新幹線で長崎へ向かう。
道中、詩人の詩がはさみ込まれる。これが一見して意味をつかみ取れず、暗喩に満ちている。この作品が「ミステリ」と言われる所以だろう。長崎の地を捜し歩いた主人公は詩人の妹と出会う。町中の男がみな振り向くような”美女”である。
どうやら詩人と東京の人妻はむかし恋愛関係にあったと知る。啓介と詩人の妹は詩人の死の真相を探る。共に崖っぷちへのドライブにまで出かけるのだ。確かに二時間ドラマの感触がある。
二つ目の依頼は彼らの恩師の死に起因している。教授は出雲に愛人を持っていた。その人との間には娘もいるらしい。彼女に会って遺産相続放棄の言質を取ってほしいという相談だ。
そんなことは法手続きのプロに頼めばよいことだ。なぜだか啓介は教授の隠し子に会いに京都を旅することとなる。教授の出した本を手掛かりに京都の版元で愛人の娘の勤め先を知る。個人情報ダダ洩れなのだ。ホテルのロビーで出会った彼女は紅茶に添えられたレモンの輪切りをかじる。
「おかしいですか、わたし、こんなふうにしてレモンを食べるの好きなんです」
御多分に漏れず切れ長の目を持つ彼女に啓介はたじたじになっている。
教授は本妻との間にも娘がいるが”小児麻痺で寝たきり”とのことだ。
切れ長の彼女はいう。
「お気の毒だわ」
そして啓介の煙草を一本吸い付けるのだ。
美女じゃなければ冷たい
啓介は心に痛手を負っていた。悪友の姉に恋心を持っていたが彼女は結婚した。彼女に贈った『愛についてのデッサン』という名の詩集があろうことか古本組合の競りにかけられていたのだ。彼は相場の倍でそれを奪い返したが、センチメンタルになっていた。
失意のまま主人公は行きつけの酒場へ行く。そこで働くトンちゃんという女の子は啓介に気があるようだが彼自身は気が付かない。
彼女は不倫の末に失恋したのだと啓介に語るが、彼の言い草がひどすぎる。
「ひどい目にあうのは男のほうだろう」
「トンちゃんが失恋するとはね」
「その男からトンちゃんは金をもらってたのかい」
「どうせ(女の気持ちなんて)わかりはしないのだろうよ」
暴言を放ちまくって啓介は”愛とはなんだろう”と考えるのである。「わたしみたいな頭の弱い女」と自ら言ってしまうトンちゃんがおじさんと不倫関係におちいる心情について考える段落のようなのだ。
啓介は失意のトンちゃんに『愛についてのデッサン』を貸す。彼女は詩の一節を朗読し感想を述べるが、啓介はそれを「とっぴな解釈」だなと思うのだ。
酒場はオーナーの急死で代替わりし、トンちゃんは田舎に帰った。
それきりトンちゃんのことなど忘れた啓介だったが、旅先にて遠ざかる列車内にトンちゃんの幻影を見る。
妹と各章の女性たち
主人公啓介は店舗兼自宅に帰っては、妹 友子の手料理を食べながら旅々での失恋を癒している。特に明確に表す文章もないがさっぱりとした性格の友子に気持ちを立て直してもらっているようだ。
登場する女たちは気が強く自分の意見を述べ、酒や煙草をのむ。仕事を持っているが、かいがいしく男を立てる女たちだ。高度成長期後の昭和40年代という時代の空気を感じる。
田辺聖子さんの描く料理上手で恋多きキャリアウーマンたちを男側の視点から見た小説のようであり、決定的に違うところもある。女の生き方への畏敬の念が足りないのだ。
野呂氏から見る女性は”美しいかそれ以外か”の側面が見え隠れする。ムスタングを操る長崎の詩人の妹に、夜桜の下の妖艶な友人の姉、容貌が美しく目は涼しく濁りがないが書籍の万引き犯かもしれない女子大生。自分をどう見せるか知っている女性にレモンの輪切りをかじらせもするし、異母姉妹に冷淡であることを隠さない。
6章のうち2章目に登場するトンちゃんに対しては、目は小さく丸い鼻は押しつぶしたように低いと描写し、肥っているのを隠すための服のセンスまで駄目だしする始末。読んでいて思い出したのが源氏物語だった。彼女は昭和の末摘花ではないか。
夕顔を失って失意の源氏が忍び込む深窓の令嬢が容姿に褒めるところなし赤鼻の末摘花だった。その設定も第2章の骨組みに似ている。6章ある中で散々な容姿を書かれているのはこのトンちゃんだけなのである。光源氏ほどはモテないけれど様々な美女と接触する啓介の人生の箸休めなのだろうか。これは昭和の男の話ではあるが平安から令和まで連綿と続く男の本音なのだろう。
長崎の地での最終章
最終章で主人公啓介は亡父が捨てた故郷長崎の地を訪れる。なぜ長崎に戻らなかったのか、何があったのか、版元や図書館司書とともに丹念に探す。
戦前短歌の会を主幸していた亡父には会の中にフィアンセがいた。彼女と結婚したのは亡父の兄であった。そしてその実家は原爆で焼き尽くされた。
亡父は毎年8月9日には東京の寺に納骨した自身の父母の墓参りに行っていた。
短歌の会を共に立ち上げた元海軍中佐が存命であり、啓介はその老人に話を聞く。
「不幸なことにきみたち若い世代の人たちは、全体主義の怖さを知らない。活字の中でしか知らない。平和のありがたさよりも平和の退屈さしか知らない。」
「全体主義、いやファシズムといいかえようか。一度でたくさんだよ、あんな時代は」
最終章のこの中佐の語りを読んで、東京に住みながら根無し草のような主人公啓介のルーツを知る。著者 野呂邦暢氏が長崎の街に生きて亡くなった人々の映像を活写し、現代(昭和中期)の平和な道行きを対比させていたのだと知るのである。
啓介は父が語ってこなかった人生を知り、どう変化するのだろうか。その後の彼の古書店人生も見てみたかった。
短編は別の装い
ちくま文庫版には『愛についてのデッサン』のほかに短編が5編掲載されている。
古書店主の話とはまるで趣が異なり、それぞれ違った手触りの短編たちだった。
特に『世界の終り』は水爆実験の被害に遭遇した船乗りが無人島に漂着する。そこに先にたどり着いていた国籍不明の人物と共闘しようと歩み寄るが、なぜか敵視され死闘を繰り広げる話だ。
海岸には死魚が打ち寄せ続ける。水爆の影響がじわじわと忍び寄る。執拗に攻撃してきた人物はもう影すら見せなくなった。
向こうに見える陸地では人は生きているのか。それすらわからないが船乗りは沖に漕ぎ出すのだ。ディストピア小説であった。
各短編の骨子として浮かぶのは、意見や状況の異なる他人とどう接するか。接し方というより、お互い相いれないものなのだと、あきらめているようにすら思える各掌編なのだ。
この本のどの物語も野呂邦暢氏の晩年に書かれたものだ。42歳という若さで亡くなったのだから、彼も死を連想して作品を作ってはいなかったのではないか。
この尖ったような文章が歳を重ねたのち、どれだけ円熟味を帯びるのか、読者なら誰もが読みたかったと思うだろう。