『まっとうな人生』絲山秋子氏。大人になっても戸惑ってる。

『まっとうな人生』絲山秋子 河出書房新社

2022年5月19日、絲山秋子さんの新刊が出ました。『まっとうな人生』。これは2005年に出版された『逃亡くそたわけ』という青春ロードムービーのの後日談といえます。『逃亡くそたわけ』で病院を抜け出して福岡から鹿児島まで爆走した20代前半の二人。2019年、再会するところから物語が始まる『まっとうな人生』。ふたりがどんな大人になったのか、年を重ねたのは登場人物だけではなく、読者だってそうです。酸いも甘いも噛みしめた大人が味わう物語です。

「まっとうな人生」 絲山秋子 河出書房新社

 

絲山秋子(いとやまあきこ) 1966年東京都生まれ。 早稲田大学政治経済学部卒業後、住宅設備機器メーカーに入社し、2001年まで営業職として勤務する。 2003年「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞、2004年「袋小路の男」で川端康成文学賞、2005年『海の仙人』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、2006年「沖で待つ」で芥川賞を受賞。(新潮社HPより)

 

『逃亡くそたわけ』講談社文庫 のおさらい

21歳の夏、福岡の精神科病棟に入院している躁患者の花は、中庭に佇んでいた鬱患者のなごやんを連れて脱走を図る。

二人はMazdaルーチェに乗り込んで、九州を南下しつつ名所を巡る。病のせいか、薬のせいか、若さが加速しすぎたのか二人の道行きは非常に危なっかしい。読み手はたくさんの危険物を両手に託されたまま、登場人物の車を追うことになる。

軽微犯罪もかましつつ進むのでさらに気をもむ読者。最終的には元いた場所に帰る。「そいぎんた、またね。」(それじゃあ、またね)といいあって。

『逃亡くそたわけ』絲山秋子 講談社文庫

 

『まっとうな人生』2019年の春、花となごやんは富山県内で再会する。

二人はそれぞれ結婚し、子どももいる。その家族同士で出会ったのだ。ふたりとも同じ県内で暮らしていたとは全く知らずにいた。

やがて家族ぐるみでキャンプにいくことになる。その時勃発したなごやんの家の柴犬失踪事件。

犬の捜索のため、期せずして花となごやんは二人で山道を車で走り出す。20年前の逃避行がよみがえる事態だ。過去の暴走を「二度とできない経験だ」と、思い返す花に、なごやんは言う。

「まじめに生きるっていうことはね、正しい量と方向性の怖れを持つっていうことだよ。」

自分の現在の家族や未来を考えると軽率な行動をとることなど考えられない。そこまで大人になった二人は、それぞれの家族のもとに戻る。

 

「たびのひと」の孤独

さて、富山市内に暮らす花こと”あたし”と娘の佳音(かのん)、夫のアキオちゃん。三人家族。休みには夫の実家で花火大会を見たり、アウトドアに興じたり。東京は行けば楽しいがお金もかかるし、疲れる。などと一見人生を満喫しているような記述が続く。

ただその段落の最後にふと「あたしは何がしたいのだろう。どこに行きたいのだろう。いい年して何を考えているのだろう。」と吐露する場面がある。そのつぶやきが唐突に思えて、読者も戸惑う。

躁鬱を繰り返し、その兆しが見え始めたら徐行運転するしかない主人公は自分の内面に対して敏感にならざるをえない。

「たびのひと」富山の言葉で「よそ者」という意味だ。

たびのひとである著者の描く富山、その本音が見える一文がある。「冬の立山はぞくぞくするほど立体的で神々しい。でも、ときどき眩しすぎて困るのだ。」人間には太刀打ちできない神々しさと険しさを秘めた自然を前にして、崇拝と恐れが同時に沸き上がるのだろう。

立山の圧倒的な美を見せつけられて、主人公あたしは「都会の孤独、街の隅っこでこっそり溜息をつくような孤独が欲しくなる。」と表現する。心が弱っているときには、やたらめったら大自然が癒してくれるわけではないのだ。自分の黒い内面を隅々まであぶり出されるような気配を感じてしまうのではないか。

都会の隅で孤独を噛みしめたいと思っていた主人公だったが、そのタイミングで娘の初潮を出迎えることになる。

近くのショッピングモールで母と娘、特別の買い物をしてパンケーキなど食べる。主人公が闇へと向かいそうなとき、ふと引き留めてくれる娘かのんちゃん。このお嬢さんの存在がカギとなる。大人たちをやわやわとつないでくれるのだ。

 

『まっとうな人生』は現実社会とリンクしつつ進む。

2020年2月になって、主人公あたしは覚醒する。ご先祖様が寄ってたかって「衛生に気を付けろ」「食糧確保をせよ」と叫ぶのが聞こえたのだという。新型コロナが日本を覆いつつある時期。

「非常事態がもたらす興奮は正常な反応だけれど、あたしの持病である双極性障害の躁状態とも似ているからだった。」ここで病気に肉体を操られないようにするケアは「体の弱い人や呼吸器に持病があるひとが神経質になるのと同じ備えだと思った。」

あの頃。現実に日本国中、世界中がテンション高く、ウイルスへの備えと自宅謹慎を呼びかける。世間が興奮しながら孤独を推奨する、全世界的に躁と鬱が交錯している状態だったのだ。と、ここの章を読んで腑に落ちた気がした。

 

鐘の音の残響

コロナがひと段落したころ、家族三人が井波別院瑞泉寺に参詣したときの様子が、私の心に残っている。

佳音が撞いた小さな鐘。鐘の音を間近で聴いた三人はその音色と残響に圧倒される。和音はサラウンドとなり頭上へ渦を巻きながら立ちのぼっていき、音が消えた後も響きが続いていたという。

身近な人を亡くしたのならなおさら、その音色に心を動かされたと思う。それが宗教の本来の意味なのだろう。

40代を迎える主人公の実家の老親への心情と葛藤が綴られた部分がある。それはウイルスが流行ろうが流行るまいが、心の底に溜めていることだ。親に感謝しつつも相容れないことがあると考えているあたし。誰の中にもある感情だ。整理できない思いとどう向き合うか。

九州に住む実母が亡くなる。「人は死ぬと仏になるというけれど、残されたものが少しずつ思い出を洗い清めていくのだろうか。」

生前感じていたわだかまりの輪郭がぼやけ、楽しそうに幸せそうに寂しそうにしていた母の姿だけが蘇る。そういった言葉にならない心情をつれづれに描くことで、読者と”あたし”は共鳴するのだ。

 

大人になった”たわけ”な主人公に語らせる意味

あたしとアキオちゃん、あたしとなごやん、あたしと佳音。属性の違う人を媒介として、著者は新型コロナが流行りだした時期に人々がどう思っていたか。スーパーの混雑と品薄。他府県ナンバーの車について。イベントの開催の是非について。休校措置と子どもたち。テレワーク。自宅軟禁状態の家族それぞれの息抜きの仕方。持病との関わりかた。未来への展望。

市井の人々が感じていたことを、絲山さんは文字に残しておきたかったのではないだろうか。もちろん絲山さんご自身のエッセイや日記でもよかったのだ。その形式でも楽しく深く読むことができるだろう。ただそれでは作家としての視点、ひとつしか描けない。

ここで絲山さんは、過去に生み出した博多の女の子と名古屋の男の子を登場させた。大人に成長した姿で。

新型コロナや双極性障害についての現状を破天荒だった花ちゃんことあたしに語らせる。絲山さんの分身でもあろう花ちゃんが病と共存し、見える風景、こまごまとした生活の過程をつれづれに描き出す。花ちゃんというフィルターを通すことで、夫や子ども、親戚や友人たちとの関わりを描ける。彼女ならどう思いどう行動しどう憤るだろうか。と考えざるを得なくなる。

それは地に足のついた表現方法なのだと、深読みしている。

この物語に大人たちしか登場しなければ、それはそれはサスペンスな結末だっただろう。ゆるゆると手綱をひく大切な役回りを”あたし”の娘である佳音が担っている。

冷えた魂と異なる意見を中和して響き合わせる。そして天へと昇華させる。まるで瑞泉寺の鐘のような佳音の存在が、大人たちを薄暗い片隅から引き上げる。太陽の恵みを浴びる「まっとうな人生」へと先導しているように思えた。

 

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