「自分の近くにあるものにじっくりと目を向ければ見出せる楽しみがある。」 と著者スズキナオさん。『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』のまえがきの一文です。コロナ禍で改めて視界に入ってきた「近場での楽しみ方」。スズキナオさんは呑んだり食べたりしながらのご近所散歩でも、こんなに奥深いんだと教えてくれるのです。そして人と正面から向き合うことの意義深さ。いろんな切り口でゆるゆると楽しむ術を伝授してくれる本です。
『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』スズキナオ
2019年11月初版 スタンド・ブックス
『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』スズキナオ
2021年12月初版 スタンド・ブックス
「次の機会に行こう」。次、なんて訪れないのに。そんな判断と経験をしたことはないだろうか。私の場合、近所にあった立派な一枚板のカウンターを持つ喫茶店がそうだった。行く機会を持たないまま20年が経過して、そのお店は閉店してしまった。
またはよく行くお店で店員さんとも顔なじみだけれど、お店の成り立ちや店主さんの想いなど聞いたことがない。取材じゃないんだからあまり立ち入って尋ねるなんて気がひける。そんな人も多いのではないだろうか。
そんな小さな切なさにスズキナオさんはゆらりと立ち向かう。缶チューハイを片手に普段着で。ナオさんは男性でどうやら2010年代中盤に東京から大阪に転居されたとのこと。なので、この2冊の本では東京近郊、大阪近郊で暮らす人々の着飾らないお話を読むことができるのだ。
チェアリングと町ぶら
一見、飲んで食べてばかりのナオさんとなかなか厳しい懐事情、人懐こい笑顔に読者はハードルを下げる。ディズニーランドの柵の外、USJの柵の外の町をぶらぶらして、ローカルフードを食べたり外から夢の国の切れ端を眺めたりして面白がる一日もある。
仲間と上野動物園のお弁当広場で酒盛りしながらちょいちょい動物を見にいく休日も楽しそうだ。メインは動物鑑賞ではなくて飲み会なのがポイントだ。
もうひとつ大事な要素が「チェアリング」。折り畳みチェアを良い景色の場所で広げ、飲む! この気持ちのよさそうなピクニックの名付け親がスズキナオさんとパリッコさん(酒場ライター)なのだそうだ。
レジャーシートに座り込むのではなく、腰かける。「それまで何でもないように思っていた場所が、自分だけの特別なものに感じられる。」とナオさんはいう。
キャンプやバーベキューなど移動距離と重装備と火気の許可を得るという手間を取りたくない。でもちょっとしたアウトドア感は自分も得たい。そこで椅子とドリンクとおつまみを持って近所の公園や河原に出かける。発想の転換ってこういうことなんだろう。その上お金もかからない。
やってみたシリーズが案外深い
お人柄からか、ナオさんの提案に賛同して企画に参加する友人たちが多い。もちろんWEBサイトに載せる記事を書くためともいえるが、仲良くないと成立しないプラン続出なのだ。
・スーパーの半額肉だけを買って半額焼肉パーティをする
・本当の意味での割り勘をシビアに計算する飲み会
・終電をのがしたつもりで夜中の東京を歩く
・「俺んち絶景」を見せ合う
・2019年7月20日の夕飯はなんだったか、問う。
こんな感じのゆるさがたまらない。ただゆるくおわる記事もあるのだが、心を動かされた企画もある。
それが企画実行時から1年前の7月20日の晩御飯がなんだったかを尋ねる企画だ。
2019年7月20日は一応大事件や災害のなかった日、といういわば「普通の日」をチョイスしている。その日に「普通の人」が何を食べていたのかなにをしていたのかをただただ質問するのだ。
土曜日だったようで外食している人や、お掃除してサッと食べて寝てる人、イベントに参加していた人など、当たり前だが千差万別だ。
論評し終わったナオさんと編集者の古賀さんの言葉は人生に対する感謝とも読める。
「こんないろいろなものを、だいたいみんなせーのぐらいのタイミングでいろいろ食べている」「ロマンですよね、完全に。泣いちゃうぐらい。」と古賀さんがいう。
具体的な晩御飯の数々とエピソードを読んでじんわりとするのは読者も同じだ。
ナオさんはこう締める。「自分がいなかった場所のこと、自分がいなかった時間のことを、どうやったら今より身近に感じられるようになるんだろうか。最近そればかり考えている気がする。」
だからこそ自分の知りえない晩御飯をのぞき見ることで、すこしでも近づきたいと願うナオさん。
この人こそ平和論者だと思うのだ。自分の知らない人がどうあろうと構わないという意識から一番遠い人だ。自分の知らない人も、友達や家族とまたは一人で喜んだり悲しんだりしながら7月20日の晩御飯を食べているんだという事実を改めて知って、泣けるように感動している。
他者に来た道を聞くということ
この2冊の本のもう一つの柱が、お店の人のまたは友人の話を聞くというものだ。
『遅く起きた日曜日に~』の帯に平松洋子氏が「ワンダーが充満しているのに 読んでいると少し泣けてくるのはなぜだろう。」と寄せている。
ナオさんは人に話を聞くのがとても上手なのが読んでいるとわかる。高圧的になりようのない笑顔でほぼほろ酔いながら品と節度をもって”お話を伺って”いるのだと思う。
登場する人々がみんな人懐こく感じるのは、聞き手のおかげなのだ。
zoomでしか会えなくなった友人には生い立ちを尋ねている。酒場ではなかなか核心に突入できないままお開きとなるからだ。
友人は本当は結婚式で使う予定だった幼少時の家族写真などを画面越しに見せながら、自分の子どもの頃の話、兄弟や両親の話などをじっくり話している。
そこでナオさんが思ったことはこうだ。「当たり前のように存在するものと思っていた友達の姿が、モニタの向こうで新しく立ち上がり直すような、不思議な時間だった。」
「一人ひとりの頭の中に、些細なことから、人生を大きく変えてしまうような出来事のことまで、たくさんの記憶がしまい込まれている。それを知れること、こうして伝えてくれる友人がいることが、とても贅沢で幸せなことに思えてくる。」
神戸新開地の昭和感漂うお店や大阪市内のホッピーが美味しい居酒屋、はたまた廃バスの和歌山ラーメンのお店。だいたいご高齢の方々ばかりで、ナオさんは孫のような存在なのだろう。出てきた料理をおいしそうに食べるナオさんにお店の人々は、繁盛した時期もご苦労も包み隠さず話してくれる。
「その空間に身を置いて過ごせば過ごすほど、自分の知らないたくさんの時間がそこには流れていて、またこれからも流れていく、という当たり前のことを思い知らされる。」
『遅く起きた日曜日に~』の終章に文字を手書きして看板に印刷する大阪の職人さんのお話がある。ナオさんはこの職人さんに丹念に取材をし、この本に書き留めた。しかし悔しい思いでこうまとめる。「ここに書いたことなんて、本当に、取るに足らない。小さな小さな欠片でしかない。」「ひとりの人の内面には遠く及ばないという寂しさ。」
楽しく読んだ章の終盤に、観念のような一節が現れる。特に人生の深いところを垣間見た時には、他者に対する愛と気持ちを全て受け入れたい思いで締めくくることが多い。
ナオさんが欲しているものはなんだろう。自分の存在意義なのか。すべての人の人生への大きな敬意なのか。
「いつもの自分じゃないほうを選ぶ」究極の遊び
このタイトル曲のような一章は文字通りだ。いつも乗るのと逆行きの電車に乗り、降りたことのない駅で降り、行こうとする方向と逆の道に進む。食べたいなと思う店の隣に入り、お酒を選ばず紅茶を飲んで、いつも食べない甘味を食し、そろそろ帰りたい自分を律して駅から遠く離れた場所へ自らを運び、淀川の湾処(わんど)に到達する。
そして思うのだ。「ひょっとしたら”じゃないほう”の自分とは、自分とよく似ているけどほんの少しだけ違う、兄弟や双子のような、親友のような、そんな存在なのかもしれない。」と。
読者も思うだろう。そんな自分に近い存在がいるなら見てみたい。次の休みには”じゃないほう”を選んで楽しんでみようかなと考えるのだ。
まずは携帯用の椅子、買ってみようかなとか考える。お花見くらいの全日本ピクニックの時期なら目立たなさそうだ。桜を見上げるチェアリング。楽しそうだ。
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