『春のこわいもの』川上未映子氏。暖かな日差しとゾクッとする冷気と。

『春のこわいもの』川上未映子 新潮社

パンデミックが始まろうとする春のこと、覚えていますか。当たり前のことがことごとくできなくなる戸惑い。ぶつけられない怒り。世界が変質していくような毎日でした。今に続く混乱の中でこそ生まれてきた小説が『春のこわいもの』です。「本当の世界って、どっち」なのかな?と語り手がつぶやきます。ここではない場所に引き込まれるような感覚を味わって下さい。

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『春のこわいもの』川上未映子 新潮社

(2022年2月23日発売)

想像をくつがえす語り手たち

 

本を読むというのは自分の知らない世界を知ること。当然、想像で補うしかない。そして人は読みながら予測する。この語り手はこれくらいの年齢でこういう状況で。

しかし彼女の文章はくつがえす。独白に近い語りがどんどん加速していき、読者にはもう手が付けられない。なんだか不穏な単語の羅列だぞ?と思ったが最後、想像とは違う景色に着地する。

それが川上未映子氏の小説世界だ。

六編の短編はそれぞれ独立している。共通しているのは、生温かな初春の日差しに油断していると、背中に差し込まれる冷気に身体をやられること。

今見ていることが現実だなんて、本当に信じてるの。自分が渦の外側から客観的にものごとを見ているとでも思っているの。

パンデミックが始まろうとする”あの春”、まさかの連続だったあの春。あの不穏な春の手触りを思い出させる物語たちだ。

 

日本語としてあれっ?と二度見してしまう文章。難しい単語なんてないのに、意味がするりと手を抜けていく。それがこの短編集の骨格のようだ。

「ねえ、戻れない場所がいっせいに咲くときが、世界にはあるね。」

え。どういうこと。でもあるかもしれない。知っている気がする。この本の序章の1編で語られるこの文章にからめとられたら、次を読んでしまうだろう。

 

信じていたものは形を変え、思い出は消えていくもの

 

2編目はフワフワした大学生の女の子が主人公だ。ルッキズムだのなんだのほざいても、この世の美醜ははっきりしている。顔かたちの出来具合で判断することの何が悪いのか、と極端な方向に近づこうとする。

それは居心地の良い部屋から出た自分を世界は難なく受け入れてくれる、と信じて疑わない若さであり、それは容易に覆される。

憧れていることは本当に存在しているのか。現実に目の前に居るこの子はほんとはどんな顔なんだろう。

 

続く3編目。寝たきりの女性の独白。外からはまだらになった記憶などと評されるだろう状態だが、彼女の脳内は自分が一番女であった時を思い出している。

自分は近いうちに死んでいくのだろうけれど、こうやって豊かに記憶をたどったり、まどろんだりしている。外の世界は感染症で大変なことになっていると、通いのヘルパーさんはいうけれど、わたしは自分が言葉にすることでしか存在しない思い出の話をしていたいと願う。

その思い出は「遠からず消えてしまう思い出」なのだと。

『春のこわいもの』川上未映子 新潮社

誰の心の奥底にもある淀みと現実の境目

 

コロナ禍が始まるずっと前から、心に隠し持っていたこと。それが世界を一変させた感染症によって、あぶり出される。

この短編集に登場する人々は、自分の心の裡を執拗なまでに探索する。自分自身と対話している。それは決して外には出せないような、いかがわしさや うしろめたさを爆発させている。

読み進めていくと、独白はますます過激になる。読者の脳内に形成された物語世界がぐにゃりと歪んでいくような感覚を覚える。

それは自分の奥底に閉じ込めていた「わるいもの」「こわいもの」が白日にさらされるような恐怖だ。

肌寒い春の初めのザラリとした感触の読書体験、未映子さんの魔性のテンポに引きずり込まれるのは快感だ。

 

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