フェミニズムの基礎を学ぶための2冊。第2回『フェミニズムってなんですか?』を読み解く。

『フェミニズムってなんですか?』清水晶子

東大教授である清水晶子氏がフェミニズムの歴史と本質をかみ砕いて語るのが今回の1冊です。フェミニズムに興味をもったきっかけはきっと人それぞれ。玉石混交の情報に触れ、アンチも多い。心が定まらない人も多いのでは?結局どういうことか?と疑問をいだく人が基礎固めをするのに最適な書籍です。

目次

『フェミニズムってなんですか?』清水晶子 文春新書

『フェミニズムってなんですか?』清水晶子 文春新書

清水晶子東京大学大学院総合文化研究科 HPより抜粋)
東京大学大学院人文科学研究科英語英米文学博士課程を単位取得退学。ウェールズ大学カーディフ校批評文化理論センターに留学しSexual Politics の分野で修士号を、Critical and Cultural Theoryの分野で博士号を取得。
平成19年から東京大学総合文化研究科超域文化科学専攻の准教授、以後10年にわたって、ジェンダー論、フェミニズム理論におけるトップレベルの研究者として研究と教育を担当。
性的少数者の政治的問題を論じるクィア・ポリティックスについての研究、クイア・スタディーズ全般の研究、また現代の日本におけるセクシャル・ハラスメントやセクシズムといったSexual Politicsについての分析など、多岐にわたる。

フェミニズムの定義を3つにまとめる

暗い夜道を安全に歩けるか問題

夜道を女性が一人で歩いていて、危ない目にあった。そんな夜中に出歩いているからだ。ときっと誰かから言われるだろう。

松田青子氏が『女が死ぬ』という短編集を以前紹介した。この書籍の中に『男性ならではの感性』という一編がある。男女の立場が逆転した、パラレルワールドが描かれている。その世界の法則にならってみる。

「夜道を男性が一人で歩いていて、危ない目にあった。そんな夜中に男性一人で出歩いているからだ。と非難される。」

現実の男性たちならこう思うだろう。「男が夜中に出歩いて危険とか、まずあり得ない。オレが心配するのはひったくり位かな?」

あわせて読みたい
『女が死ぬ』松田青子氏。直接攻撃しないクレバーな短編集。 強烈なインパクトを持つタイトル『女が死ぬ』。松田青子さんの描く「女に対する定義の理不尽さ」にいちいち「わかる~」と声が出ます。凝縮された53本の短編たちから繰...

こちら現実の女性たちは実際にこう考えている。女性は夜道、全方位を気にしながら歩かねばならない。少しでも明るい夜道、人通り車通りのあるところ。この服装はスキがあるかもしれない。なんでそんなに気にしなきゃならないのか。

女性たちが若い時から抱いていたこんな疑問と不満を、フェミニズムの視点からこう分析する。

「より安全な道を選ぼうと心がけるのは、自衛ではあってもフェミニズムではありません。フェミニズムは、そのような非難に対して暗い夜道を女性が安全に歩けないのはおかしいと反論し、いつでも女性が安全に歩ける社会を目指そうとするのです。」p12

自分一人で、悪人排除もできないし街灯を増やすことも難しい。ならば私が鉄壁の装備で歩く以外に方法はない。諦めつつ自衛していた女性たちにこそ、フェミニズムがあるのだと第一章で定義しているのだ。

女は黙っていろ問題

学級委員会で、サークルの会合で、仕事の会議で、女性もそこに参加はするけれど暗黙の了解が存在する。

女の反論は受け入れられず、発言しても流れていくばかり。理不尽な要求を飲まねばならない状況で言葉を述べれば、「女は黙っていろ」という無言の圧力を感じるだろう。それでも発声し続けた女性はかなり目立つ。

こんなシチュエーションに出くわした時、清水氏が提示する思考法はこうだ。

「おかしいと思った自分が間違っていたのだ、などと思わず、違和感や憤りを捨て去らないこと。それがフェミニズムのとても大切な基本です。」p14

この教えもハードだ。自分が矢面にたつのは得策ではないと社会人として悟っている。その意識にミソジニー(自分自身の女性蔑視)が横たわっていると感じる。

ただ、正面切って対立する必要はなさそうだ。抱いた違和感を持ち続けることが、まずは大切なのだろう。

幼いころから教育され続けたミソジニーを解除するのは容易ではない。気づかなかったし傷つかなかったと信じるほうが楽だろう。眼前で起こった理不尽なことを咀嚼するのはつらい。吐き捨ててしまいたい。確かに楽な思考法とは言えない。だが考えること。それがフェミニズムの第一歩を踏み出したともいえるのだ。

あわせて読みたい
フェミニズムの基礎を学ぶための2冊。第1回『女ぎらい ニッポンのミソジニー』を読み解く。 ひとまず「ミソジニーってなんですか?」というご質問にお答えしなければ。ミソジニー:女性嫌悪、「女性蔑視」という単語が最適訳とのことです。ジェンダー研究の第一...

女性たちそれぞれのフェミニズム

ひとくちに女性といっても、もちろん同じ人などいない。年齢・人種・経済的・学歴・身体的なちから。性的指向が異なることもある。ジェンダー問題を取り扱う上で、女性たちの中で「利害が対立することだってある。」p16 と清水氏は指摘する。

描く未来や人生への満足度は人それぞれだ。その前提を踏まえた上で清水氏は強調する。

「けれども、フェミニズムは「あらゆる女性たちのもの」です。そして、だからこそフェミニズムは対立する声を抑えず、異なる経験を持ち、異なる立場にある異なる女性が、互いに互いの存在を知り、互いを尊重するよう、求めるのです。」p16

全人類、互いを尊重できれば差別も戦争もなくなるな。そうはならない世の中だからこそ自分の足場をしっかり固める必要があるのだ。

フェミニズムの流れ

第一波

19世紀末から20世紀前半、主にイギリス。女性の相続権、財産権、参政権。公的な権利の主張と獲得。この時代の人々の努力の上に私たちの権利は成り立っていると理解したい。

第二波

1960年代アメリカ。女性に課せられた家庭での役割(家事・育児・介護など)への疑問、ハラスメントを私的な問題としない運動(ウーマンリブ運動)。この頃のフェミニズムは、高等教育を受けた中流上流階級の白人の価値観によるところも大きかったそうだ。そのコミュニティに属さない女性の権利は意に介さない思想であった。これがこの時代の問題点。

避妊や中絶の問題、不妊治療の無限の広がりは「女性は子どもを産むべきという圧力を後押ししているのか。」p30 という意見も噴出する。このような生殖における女性の負担をどう考えるかは現代まで続く議題だ。

関連して浮かぶ一件がある。令和4年4月より再び厚生労働省が”積極的に推奨”し始めたHPVワクチン(子宮頸がんワクチン)、ここにひっかかりを感じている。(言いたいことはあるけれど)(なんで女子だけ接種なの?とか)

 

第三波

1980年代末から1990年代。ウーマンリブの女性たちが”女を捨てて”活動していた反動がやってきた。セクシーであろうとキュートであろうとその女性の個性なのだ。そのファッションで女性の権利を主張して何が悪いのか。
ライオット・ガールに代表されるパンクロックなどの活動を通じて、女がどんな服装をしてどんな意見を述べようとそれが私たちの生き方なんだというムーブメントが起こった。
ライオット・ガールと対照的なグループとして清水氏が挙げたのが、スパイス・ガールズだ。スパイス・ガールズの位置づけは現在まで続く若者の志向と似ている。

自分が楽しければそれでよい。革命を起こそうなどと思っていないといったところだ。

この時代は日本ではバブル期。関西に住む私は真っ先に漫才師のハイヒールを思い出した。90年代前後台頭してきた漫才の新しい潮流だ。外大卒で知的なリンゴと、ヤンキーのまま舞台に立ったモモコ。興行界もカネと権力に牛耳られたマッチョな組織だと思うが、自由な服装自由なネタで定石を覆す漫才をやってのけた彼女たちは、改めて風雲児だったんだと感じた。

この頃の日本の女性はソバージュ、肩パットにミニタイトにヒールという、今思えば頭でっかちでバランスの悪いファッションで人生を謳歌していた。自分の足で大地を踏みしめるイメージはない。先のグループでいえばスパイス・ガールズ的な志向に近かったのだろう。

現在のフェミニズムの潮流

2022年の現在におけるフェミニズムの位置づけを見てみる。

中絶するのもしないのも自由であるはずの21世紀だったが、アメリカの一部の州では州法で規制をし始めたという。

日本では中絶は違法ではないが「原則として配偶者の同意」が必要。これは望まない妊娠をした女性がどうやって配偶者や相手側に同意を求めるのか。困惑しているうちに堕胎できない週数になった妊婦さんはどうする。検診は、出産場所は、費用は、そして誰がどうやって育てるのか。

この悪しき「同意」という不文律により、危険な出産と遺棄という事件が何度も起こる。この時、女性の相手側(男性)は罪に問われない。世論は女性を集中的に非難するのだ。本当に彼女だけが悪いのか。

もちろん子どもが等しく平等に生まれ、温かい布団とミルクを与えられ生育できれば一番幸せだ。だが誰もが安全地帯にいるわけではない。どうしてもそれらを確保できず情報を取れない人をどうやって救済するのか。

DVや様々なハラスメント、低賃金で労働せざるを得ない人々がいかにして安心して生活でき出産できる場所に誘導することができるか。

一見、整備されたこの国にさまざまなひずみが見え始める。それはジェンダー問題を少しこの手に取った証しであろう。

『フェミニズムってなんですか?』清水晶子

フェミニズムを考えることは社会全体を考えること

フェミニズムについて思いを巡らせるのは、苦しくもある。誰しも不快なできごとから距離をおいて、平穏に暮らしたい。

この世の闇を他人事として安穏と生きている。そんな人たちのことを清水氏はこう定義する。

「おそらくセクシュアリティとジェンダーに関する社会の規範からあまりずれることなく生きてくることができたひとではないでしょうか。そういう人々は、性について色々と思い悩んだり考えを巡らせたりする必要に迫られることが、より少ないでしょうから。」p210

世の中の”普通”の生き方から外れてしまう人たちは、明るみに出て非難されることを恐れ、どう生きるべきなのかを真剣に考えている。

そこで出会うのがフェミニズムなのだ。なんで前から来る男に恐怖心を持たねばならないのか。何故自分の好みを他人に糾弾されなければならないのか。いつになったら本当の”優生保護”は撤廃されるのか。意識改革は進んでいるのか。望まれない子も一人の国民として丁重に育てる方法はないのだろうか。

声高に主張すると”おっかないフェミニストのおんな”とSNSで叩かれる風潮や、女が女を揶揄すること。権力のある男性たちが牛耳る世の中では女が既にマイノリティである。権力者が仕掛ける罠に乗っかり非権力者同士で不毛な争いをするのは時間の無駄だ。

フェミニストってなんだろう?という疑問にぶち当たって読み始めた本作だが、更なる深海に沈み込みそうだ。フェミニストがお役御免になる日はまだまだ来ない。

大きな社会の変革が求められる問題でもあり、私たちの世代で全てが解決することはできないだろう。しかし先に大人になった者たちが次の世代に少しでもより良い社会を提供できればベストだ。少しでも軽くなったフェミニズムのバトンを引き継ぐことができればいいな、と思う。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
目次