「タラント」とは「使命」という意味だそうです。角田光代さんが描くこの”使命”とはなんなのか。主人公みのりは回り道と停滞を繰り返します。祖父の人生が明らかになるにつれて、見えてくるもの。全てが見通せたときに私たち読者は主人公と共に一歩踏み出せるでしょう。
『タラント』角田光代 中央公論新社
(2022年2月21日発売)
新聞小説は読んだことのない作家さんと毎日出会える良いきっかけとなる場だと思う。角田氏の描く人々にはうそがない。読み終わると、登場人物たちが現実に、東京や香川のどこかで暮らしている気がしてならないのだ。
1999年と2019年 みのりの人生
2019年に生きる40歳前後の主人公みのり。東京在住のみのりが故郷香川に帰省する機内から物語が始まる。後ろの座席で赤ん坊が泣く。舌打ちする見知らぬ男性。着陸後ちらっと赤ん坊のほうを見てしまった自分自身の内なる言い訳。みのりの目に映る世界は、なるようにしかならないというあきらめに支配されているように見える。
みのりの実家は讃岐うどんの店だ。親族で店を取り囲むように住んで働いている。その小さなコミュニティで全てが完結する、そこで生まれ育った。
故郷は決して閉塞感のある土地ではないのだが、高校生の頃のみのりは広い空にも近くにある瀬戸内海にも「閉じこめられている」という感触を抱いていた。東京の大学に進学を決め、いよいよ上京のために機上の人となったみのりの心情は高揚のただなかにあった。
「出ていくんだ、とみのりは心の中で叫んだ。」「自分の意志と足で、はじめて、外に出たような気がしていた。」
みのりが大人への第一歩を踏み出す象徴的なシーンだが「外に出たような気がしていた」、と表現している。本当の大人になったみのりの視点は非常に手厳しい。
東京郊外の大学での生活は、思い描いた通りには進まなかった。人と情報の多さにまず驚く。授業の選択に戸惑い、同級生とのコミュニケーションもうまくとれない。表面上の付き合いと、自分自身に確固たる信念を持っていないことに、ひとまず落ち込むみのり。地元の高校の頃のように、引かれたレールに乗っかって生きることの気楽さを思い知った。
履修科目は何とか決めたもののサークルやアルバイトをするでもなく、内心焦りを感じていたゴールデンウイーク。実家の祖父が一人で唐突に上京してきた。不慣れな吉祥寺のホームで何とか合流し、みのりは一緒に食事を取りながら祖父に話し続ける。
みのりは東京で心細かったのだ。東京でたったひとり気持ちが張り詰めたまま、間違いが許されない社会に踏み込んでしまった。友だちを作れる自信を失っているとつぶやくと、祖父は言うのだ。
「友だちはできる。」「いろんなやつがおるじゃろう。いろんなとこから集まってるからな、大学は。本当に気の合うやつがいるさ」
祖父はその後東京の友人と会ってから帰郷した。みのりは祖父の言葉を不思議に思う。実家のうどん屋の店内や、駐車場のベンチで佇んでいるだけの祖父の姿しか見ていないからだ。祖父も自分と同じように大学に行っていたのか、どんな勉強をしていたのか。どんな青春時代を送っていたのか。みのりは祖父の過去を知りたかったが、故郷の家族からも満足のいく話は聞きだせなかった。
この時、祖父は東京で誰と会っていたのか。どんな思いがあったのか。それがこの物語の根幹となる。平成令和に暮らす私たちの想像しえない苦悩を抱えたまま、飄然と生きる祖父の姿。読了するころには神々しくさえ思えるのだ。
祖父の助言は現実になった。住んでいる女子寮のなかで、他大学の先輩と出会う。それがみのりの人生の転換点だ。「麦の会」というボランティアサークルに入会したみのり。上京してはじめて、心を許せる友人たちと巡り合った。口にすれば些細なことでも、ぞんざいに扱わない人たち。東京の夜、やっと息ができるようになったみのりに読者も一安心するのだ。
「麦の会」の意味が記される。「聖書の言葉」だという。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、ゆたかに実を結ぶようになる。」
祖父の生きた道と一粒の麦の意味。この後、さまざまな人の人生が描かれる中で”どう生きてどう死ぬのか”という命題が出てくる。それはサークル名を通じて示されているのだ。
みのりはサークル活動を通じて世界を見ることになった。発展途上の地の子どもたちの現状を知り、活動とはいえ観光の域を出ない自分たちの行動範囲にジレンマを感じ始める。矛盾点を解消すべく自分で考えて動き始めるのだ。みのりは生真面目で優しい。それが”あだ”になる事態が起こり、みのりの人生の足かせとなってしまう。
1940年代 ”ぼく”の独白
みのりという女の子の話の合間に、どうやら戦争中の兵士のひとりごとがはさみ込まれる。誰なんだろう。読者は不思議に思う。
兵士は”ぼく”という一人称で苦悩を独白する。国内の訓練では殴られ通しだったが、町に出ることも許され、気の合う友人もできた。
やがて訓練は終わり戦地に送られる”ぼく”。戦地とはどのようなところか。
「考えてはだめだ、感情を持ってはだめだと、思い知らされることになる。いや、正確にいえば、考えることも、感情を持つことも、いっさいなくなるんだ。」
南洋の戦地にて退却戦としか思えない戦いを強いられる部隊。仲間はどんどん吹き飛ばされる。感情を持つことが許されない環境で、自分の意志が麻痺してしまう。「自分で考えることができなくなっている」
爆撃により被弾した”ぼく”は生き延びた。戦後、生まれ故郷に戻った”ぼく”は思い知る。もう以前の自分を取り戻すことはできないのだと、絶望するのだ。
全てがなすがまま、上官に命令されて陣地を設営した時のように、故郷の見知らぬだれかに声をかけられるまま生き、自分の感情を捨ててしまった”ぼく”。希望なんてひとかけらも持っていないように見える。
大切な何かを失い、それでも人はなぜ生きるのか
みのりの生きる21世紀は自由に泳げる世界のはずだ。だが彼女は苦しそう。みのりが経験したことの幾つかは、読者である私たちも形は違えど出会っていると思う。読み手もチクチク心を痛めながらみのりの人生を追っている。
ただ兵士だった一人の男の人生は、息を止めるようにして読むよりほかない。
この二人の登場人物の共通点は何だろうと考えている。大切な何かを失った後、人は希望を持って立ち上がれるのだろうか。次の”なにか”は見つけられないかもしれない。でも見ていないことを望むことはできないんだ。
「世界を知るって、自分の未来を知ること」。みのりの友人である玲が放つこの言葉は重要だ。
大人になったみのりに訪れる絶望と拒絶。重大な別れを経験し、封印してきた過去の自分の浅はかさを思い出す。彼女はもう東京で働くことができなくなる。故郷のうどん屋を手伝いながら、寡黙な祖父と再び話す。
「何も知らなければ。何も知ろうとしなければ。」私はこんなに苦しむこともなかったのに。気持ちの一端を話すわけではないが祖父には通じているのだ。祖父はただこう言う。
「なんちゃせんでも、ええ」
その言葉により、なぜ祖父が毎日じっと座っているのか少しだけ分かった。みのりのそれとは比べられないほど深い祖父の絶望を悟った。”世界を知る”とは受け止めきれない現実と向き合うということだ。祖父もみのりも世界を知ってしまった。
その上で、心が壊れそうなときはその身を日常にゆだねて生きることも大切なのだと、「ただ、見とればええけん」と祖父は短い言葉でみのりに教えるのだ。
一粒の麦とタラント
みのりは夫となる男性と出会い、なんとか生きて東京で働いている。それは学生時代に抱いていた熱意とは程遠い生き方でもある。そこから彼女はどうやって立ち上がるのか。その歩みはとてもゆっくりだ。決定的なことが起こって主人公が再起するような小説ではない。
後半の章で、物語前半ではわからなかったことが明らかになりはじめる。過去と現在、途中で挟みこまれる“ぼく”の語りとともに接点が重層化する。みのりも読者もあぁ!と声をあげる。そういうことだったのか、と。
きっと現実を生きる私たちと同じように、迷って泣いて確かめて諦めた先に見える何か。それをつかみにいく旅だ。じれったい。それは等身大の自分を見ているような、もどかしさを感じるからだ。
全ての人の歩みを肯定する終章に、現実を生きる読者にもタラントが与えられる。手のひらに少しの希望を握りしめて、空を見上げて進んでいけますように。
そんな角田さんの祈りが伝わるような小説であると思う。
『タラント』に関する角田光代さんのインタビュー記事
連載開始当初の角田光代さんのインタビュー記事が読売オンラインで読めます。
角田光代さん『タラント』インタビュー特別編
連載が終了したお気持ちを語る角田光代さんのインタビュー記事も読売オンラインで読めます。
角田光代さん『タラント』連載を終えて...
新聞紙上で読まれていた方は、通して読むと改めて心を動かされると思います。畳みかけるような後半の章とエピローグは、どうあっても泣けてくるのです。
未読のかたはぜひ『タラント』に触れていただけると嬉しいです。
↓読売新聞上での連載最終回のすぐあとに上げた記事がこちらです↓